2012年9月28日金曜日

ではスタイルとは何か?

 それはあまりにも独特で、把握するのがむずかしい。「聞かないとわからないなら一生わからないだろう」と人は言う。「見ていればそれが何なのかわかる」と別の人は言う。神を自分の同胞だと考えていた好色なキュビストのピカソはこう言った。「神はアーティスト以外の何者でもない。キリンやゾウやネコを生み出したのだから。彼にスタイルはない。何でもやってのける。明白なスタイルなどないのだ。何だってトライするだけさ」
 だいたいスタイルはがんばって手に入れるものではない。努力など無用だ。ファンカデリックのジョージ・クリントン(ファンク音楽家)はこう言った。「ファンクさえあればいいスタイルだ」。ジョージ・ガーシュウィンはその禅的な歌詞で絶妙に表現した。「君の帽子のかぶり方、お茶の飲み方、そのすべての記憶それを僕から奪うことはできない」
 スタイル、それはクラーク・ケントの眼鏡の取り方。ジャン・コクトーがル・モンド紙を読む時にスーツ・ジャケットの袖をたくし上げる時の仕草。ビル・エヴァンツがピアノで前傾姿勢をとり、首を鍵盤と水平にした姿。ルイ・アームストロングがコルネットにハンカチをかけて吹くこと。それも指の動きを盗まれないようにしたバディ・ホールデン(コルネット奏者)のマネだろうが。モハメド・アリは刺すように舞った。マイケル・ジョーダンのショーツのはき方、ケーリー・グラントが呆れた時に見せる目を回す仕草、シナトラの煙草の持ち方。パトリック・ユーイング(バスケット選手)のジャージの下のTシャツ。ジャッキー・グリーソン(俳優)が「そら行くぜ!」と言う時の感じ。スタイルは人に教えられない。パクったりマネたりできない、つまり替えがたいものだ。
 だが多くの人にとっては残念なことに、所詮は自分を超えるスタイルなど見つかるはずもない。普通のタイプの人間である限り、スタイルはない。スタイルはユニークで儚い。アートだろうが話し方だろうが着こなしだろうが身体的な動きだろうが、際立ったスタイルには、振る舞いがユニークか、最低でも珍しくなければならない。子供の頃、迎合の時代だと人は不満を漏らしたが、今やクローンの時代に突入してしまった。増殖できるならわざわざ模倣する必要なんてない。今では迎合しないことが当たり前となったオルタナのベルトコンベアから反逆者たちが量産される。デザイナーによる反逆的なユニフォームで身体を覆い、パンフから選べるタトゥーを入れ、ありがちな驚きポイントにピアスをする。
 素晴らしいスタイリストをマネすることはできても、そのコンビネーションはがっちり決まっているために取って代わることのできない。彼らのフォロワーや支持者たちが本当に力を注げば、彼らは自分たちのアイドルの模倣を超越し、自分独自のリフや弾き方を手に入れられるだろう。僕が知るスタリッシュな人たちのほとんどは偽物と呼ばれ、最初はそうだったかもしれないが、自分なりの勢いが出てくると、本物の偽物になっていった。最終的にオリジナルということだ。模倣という補助輪は外れ、自由になる。見せかけでも根づくことはある。心してかかれば、そこから羽が生えてくることだってあるのだ。

と言う文章を、昨日仕事の空き時間に読んでいて、何か引っかかるものがあったです。

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