2012年5月12日土曜日

さいについて

「犀の角のようにただ独り歩め」というかっこいいフレーズが気に入っていた。若い頃のことだ。
 何をするにも自信がなく、毎日が手探り及び腰、そのくせ鼻っ柱だけは強く、事あるごとにすぐ開き直る。そんな臆病な若造にとって「犀の角」や「ただ独り」は手軽で便利なキャッチコピーだっただろう。ブッダの教えであることはぐらいはわかっていて、文庫本の『ブッダのことば スッタニパータ』を拾い読みした記憶もあるが、あの聖典をどう解釈していたかは推して知るべし。
 おもしろいことに、その青臭い「犀の角ーー」が、最近また魅力的なことばとして僕のなかに蘇った。演劇・映画でいえば、再演・リメイク。同じテキストを使って全く違った作品をつくるといった体のおもしろさである。
 ブッダの言う角はもちろんインドサイのものだが、実はこの角、中はぶよぶよで、とうてい闘争の武器にはならないヤワな代物なのだそうだ。
  だから彼らはあまり戦わない。獰猛なのはアフリカの犀で、インドの連中はただ温和しく地味に密林を歩き回っているだけらしい。群れることもなく孤独にのこのこ山奥をうろついている。図体がでかいからむやみに攻撃される心配もないという。 
 つまりあの勇ましい立派な角は、少なくとも喧嘩に関しては無用の長物。相手を威嚇するための張りぼてのようなものとか、まあ学問的にはそれなりの理由があるのかもしれないが、無用の長物としたほうが僕は愉しい。
 「ぶよぶよの角」は意外、新鮮だった。僕はこのことを鶴見俊輔さんの著書『隠れ佛教』の一節で知り、これが、むかしむかしの幼稚な「犀の角ーー」をリメイクするきっかけになった。ある時釈迦牟尼は犀の超然とした生態にふれ、ああいう風に生きるのがいいというイメージを持った、その感じ方に非常に親しみを覚える、と鶴見さんは述べている。
 薄暗い森を徘徊する純重な生きもの。巨体を維持するにはせっせと草を食まなければならない。忙しい。無用の角は邪魔だけれど、でも、それがなければ犀じゃなくなる。ブタみたいなってしまう。角はきっと犀のプライドなのだろう。



最近読んだ本でおもしろかった冒頭のところ。

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